年が明けて2024年。1月の例会を26日(金)、スペーシアにて開催した。懸案となっている合宿について検討状況を説明した後、本題の古典文学の話題に移った。出席者は、リアル7名、リモート2名の9名。
源氏物語
NHKの大河ドラマ『光る君へ』が始まった。『源氏物語』の作者・紫式部が主人公で、藤原氏が権勢を誇った平安時代中期の宮廷が主な舞台。私はいくさや戦闘シーンが嫌いだが、平和な世界を描くドラマなら見てやろうか。でも、それではドラマ性がないのかなぁ・・・。などと思いながら、毎回見ている。史実に沿っていないと思われる部分が多く、展開が読めないところが面白い。
『源氏物語』は、数年前に一念発起して谷崎潤一郎訳の文庫本を全編読んだ。3ヶ月くらいかかったような気がする。数多くの現代語訳がある中で、谷崎の訳は原文に忠実だ。原文には主語が明示的に書かれない文章が多いので、文脈や敬語の使われ方を理解しないと文意が掴めない。谷崎はそれを承知の上で主語を補うことなく文意が正しく掴めるような訳文を作ったのだから、その苦労は大変なものだったと思う。読む方は、「この文の主語は誰だろう ?」といちいち考えながら読むことになるので時間がかかるが、その分読破した時の感慨は深い。古典文学というものは、文章は読みづらくて当たり前であり、背景や書かれた当時の常識を推測しながら苦労して読むところが面白いのだと私は思っている。
イーリアス、オデュッセイア
高校時代から学生時代にかけて、世界の名だたる古典文学を読んでやろうと思った。といっても、19世紀のロマン派文学ではなく、あまり読まれない18世紀以前のヨーロッパ、中国、アラビアなどの古典をたくさん読んだ。この日はその中からいくつか紹介した。
まず、古代ギリシャの詩人・ホメロスの叙事詩『イーリアス』『オデュッセイア』は、呉茂一訳の岩波文庫でずいぶん苦労して読んだ。壮絶な戦闘の場面が多いが、生贄の牛や羊を焼いて、ワインとともに神々に捧げる儀式が印象的。儀式の後はみんなで宴会するのかなと思った。エーゲ海を眺めながらバーベキューに舌鼓。いかにも美味しそうだ。
千一夜物語
『千一夜物語』は、夜毎、シェヘラザードが王に語る枠物語の体裁となっているが、元々はペルシャ、インド、ギリシャなどの民話が集められ、アラビア語に翻訳され、9世紀頃にまとめられたもの。谷崎潤一郎の『蓼食う虫』に主人公・要(かなめ)がアラビアン・ナイトの洋書を手に入れた話が出てくる。長くなるが、「青空文庫」から引用する。
「面白いのかい、その本は? 大分熱心じゃないか」
「面白いよ、なかなか、………」
要は一旦テーブルの上に伏せた洋書を取り出して、それを自分にだけ見えるように顔の前へ立てていた。開いたところの一方のページに裸体の女群が遊んでいるハレムか何かの銅版の挿絵があるのである。
(中略)
「大人の読むアラビアン・ナイトって、子供のとまるきり違うんですか、お父さん」
高夏の言葉におぼろげながら好奇心を感じたらしい弘は、さっきから父の手の蔭になった挿絵の方へ探るような眼を光らしていた。
「違うところもあるし、同じところもある。―――アラビアン・ナイトと云うものは全体大人の読む本なんだよ。その中から子供が読んでもいいような噺だけを集めたのが、お前たちの持っている奴さ」
「じゃあ、アリババの話はある?」
「ある」
「アラディンと不思議なランプは?」
「ある」
「『開け、胡麻』は?」
「ある。―――お前の知っている噺はみんなある」
「英語だとむずかしくはない? お父さんはそれをお読みになるのに幾日ぐらいかかるんです」
「お父さんだって此奴をみんな読みはしないよ。面白そうな所だけを捜して読むんだ」
「しかし読むから感心だよ。僕なんかとんと忘れちまったね。英語なんてものは商売の外には使う時がないんだから」
「それが君、こういう本だと誰でも読む気になるから奇妙だよ、こつこつ字引きを引きながらでも。………」
「いずれ君のような閑人のやる事だな。僕みたいな貧乏人にはとてもそんな時間はないよ」
『千一夜物語』だけでなく、名だたる古典文学の中には好色本が多い。14世紀にボッカチオが書いた『デカメロン』、明代の長編小説『金瓶梅』、井原西鶴の『好色一代男』などなど。一方、『伊勢物語』や『源氏物語』は「いろごのみ」の理想の人物を描いた作品とされる。「いろごのみ」とは折口信夫が提唱した概念であり、単なる好色とは異なるのだそうだ。
いろごのみは単なる好色とは異り、複数の優れた女を妻妾とすることのできる男の能力や魅力、またそれにまつわる風流・風雅を指すものであり、「すき(数寄)」「みやび」「やまとごころ」などと同義ととらえることもできる。(Wikipedia)
滑稽本
ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などは滑稽本と言っても良いと思う。ラブレーの作品では、馬鹿話や与太話、荒唐無稽な話の中に鋭い風刺や体制批判が含まれるのだが、有名な「猫でお尻を拭く話」を始め、多くは単なる滑稽話に終始している。風刺の意味がイマイチ掴めない私のような読者にはそこが魅力だし、当時のほとんどの読者にとっても同様だったと思う。
『ドン・キホーテ』は、高校の世界史教科書で「中世の騎士道を風刺した作品」と教えられたとき、何か違うような気がしていた。ミュージカル『ラ・マンチャの男』で描かれる「見果てぬ夢」を追いかける夢追い人のイメージはどこへ行ったのか・・・。と思って、高校時代に読み始めたのが、そもそも古典文学にハマるきっかけになった。
『東海道中膝栗毛』は、ご存知、弥次さん喜多さんによる珍道中の物語。「弥次郎兵衛は50歳くらい。相方の北八は30歳くらい。この二人の関係は ? 」というクイズを出したが、誰もわからなかった。実は「北さんは弥次さんの”陰間”だった」というのが正解。この辺りは作品の冒頭にちゃんと書いてある。では、陰間とは何か ?
陰間 (かげま) とは、江戸時代に茶屋などで客を相手に男色を売った男娼の総称。特に数え13 – 14から20歳ごろの美少年による売色をこう呼んだ。陰間は男性相手が主だったが、女性も客に取ることがあった。数えで20歳ともなれば少年としては下り坂で、その後は御殿女中や後家、商家の人妻を相手にした。(Wikipedia)
ダイバーシティと古典文学
ダイバーシティ (多様性) が重んじられる時代がようやく到来した。古典文学を読むことは、多様な民族・文化・宗教を理解する上で大いに役に立つ。その際、作品が書かれた時代の背景を知らなくてもそれなりに楽しめるが、知ろうと努力することによりさらに楽しくなる。いずれにしろ古典文学を読むには骨が折れる。しかし、古今東西の古典文学を苦労して読んでいく中で、現代社会で無意識のうちに育まれた常識と、作品の背後に見え隠れする常識とのギャップを一つでも発見することができれば、それだけで読者の人生にとって大きな収穫になるのではないか。
2024.2.23 M. Hayashi
※写真は、衣浦港に寄港したクルーズ船「にっぽん丸」。埠頭で歓迎イベントが開かれた。