7月21日(金)、スペーシア会議室にて開催。出席者は8名。テーマは「東アジアの歴史と朝鮮通信使」とした。
朝鮮通信使については、個人的に、また複雑研のぶらりツアーや合宿の際に、ゆかりの深い町、寺院、資料館などに何度か足を運んできた。しかし、朝鮮通信使の勉強をしていると、いかに自分が歴史、とりわけ日本を含む東アジアの歴史に疎いかを思い知らされた。高校時代は歴史をそれなりに勉強したつもりなのに・・・。
数十年前の話になるが、高校時代に勉強した「世界史」は、西洋史が中心だった印象がある。確かに中国の歴代王朝の歴史は丁寧に教わったが、日本を含めた東アジア全般を俯瞰した歴史は習った記憶がない。「日本史」の方は、まさしく日本列島における日本人の歴史が中心で、周辺国との関係についてはその都度軽く触れられる程度だったと思う。だとすれば、朝鮮通信使の歴史的背景や当時の東アジアの国際関係など知る由もない。
そうした問題意識から、ここ数年、自分なりに東アジアの歴史を勉強してきた。今回、その成果を披露したという次第。以下、話の大筋をかいつまんで記録しておく。
日本の歴史の特異性
日本人の歴史観を考える際に注意すべきは、「日本人という民族的まとまり」と「日本人の居住地としての日本列島という地理的まとまり」の関係が、古代から現代に至るまで大きく変わっていないことだ。それに加えて、紆余曲折を経ながらも、一つの王朝がずっと継続している。こういうことは他の民族、他の国家では珍しいのではないか。イギリスやタイといった古くからの王国はそれに近いと思われるが、イギリスの場合は、大英帝国の時代に世界に進出し、アメリカ、アジア、アフリカ、オセアニアに多数の植民地を作り、第二次世界大戦後、それらの多くが英連邦に加盟する独立国家として巣立っていった歴史がある点で日本とは大きく異なる。日本は明治から1945年の終戦までの間、領土の拡張に邁進したが、結局はまた元の鞘に戻った。
倭または日本が他国から侵略されたケースは、太平洋戦争で連合軍に占領された例を除けば、鎌倉時代の元寇(1274年, 1281年)しかないのではないか。二度にわたる元寇では、暴風雨の襲来という幸運もあって、なんとか元軍の上陸を食い止めた。
他方、倭または日本が他国の領土に侵攻したのは、古代の白村江の戦い(663年)、中世の秀吉による朝鮮出兵(1592〜3年, 1597〜8年)、そして明治から昭和にかけてをまとめて1回と数えれば、計3回なのではないか。このうち白村江の戦いは、新羅・唐連合軍に滅ぼされた百済の復興を支援するための援軍であり、領土的野望を抱いての進軍ではなかった。しかも大敗した。一方、秀吉による朝鮮出兵は、明まで視野に入れた純粋に領土拡張を目指したものだった。これは朝鮮の人々に大きな惨禍をもたらし、倭寇とともに日本人に対するトラウマの源になった。
秀吉の朝鮮出兵と朝鮮通信使
天下統一を果たした豊臣秀吉の軍勢が朝鮮に侵攻し、李氏朝鮮と明の連合軍と戦った文禄・慶長の役は、1598年に秀吉の死により日本軍が一方的に撤退し、終焉となる。その2年後の関ヶ原の戦いを経て、1603年に江戸幕府が開府。諸外国との交易を重視した家康は、対馬藩を介して朝鮮・明との和解を模索するが、秀吉の軍勢によりひどい目に遭った朝鮮の人々は、容易には心を開かない。
そこで徳川幕府は、豊臣政権とは異なり朝鮮や明を敵視していないことを実見してもらうべく、李氏朝鮮に対し、使節団の招聘を行った。これが朝鮮通信使として実現したのは1607年のことであるが、その時の名称は通信使ではなく「回答兼刷還使」だった。将軍からの国書に答え、日本に残っている朝鮮人捕虜を送還するという意味である。以後、1811年まで12回にわたり、李氏朝鮮から徳川幕府に数百人規模の大規模な使節団が派遣された。釜山から大船団を組んで対馬、瀬戸内海を経て大坂へ。大坂からは陸路で京、大垣、名古屋へ。名古屋からは東海道で江戸まで。その間、通信使の一行は、各地で歓待を受け、地元の文化人と盛んに交流し、文化的な遺産と鮮烈な記憶を残していった。当時の庶民にとって朝鮮通信使は格好の見せ物であり、一大絵巻だったのではないか。
江戸時代の日朝関係は、歴史的に稀なほど良好だったようだ。
冊封
中国の歴代王朝は、周辺国に対して冊封(さくほう)の関係を結ぶよう要求した。冊封関係を結ぶと中国の暦や年号の使用を求められ、形式上の主従関係となるが、独立国家としての体裁は守られ、冊封を受けた国が第三国に侵攻された際は中国が援軍を派遣してくれる。周辺国がこうした関係を良しとするか否かは、その時々の政権の判断となるが、これに応じたのは李氏朝鮮、安南、琉球などであり、日本は室町時代、足利義満の短い時代を除いて応じていない。
明や清は冊封の関係にある国としか交易を許さなかったので、大国である中国と交易ができない非冊封国は経済的にかなり不利。そこで薩摩藩は、琉球に侵攻して支配下に置き、琉球を介した明や清との交易から大きな利益を享受した。これが薩摩藩の軍備拡張、ひいては倒幕の原資となった。このあたり、日本を含む東アジアの歴史を俯瞰する上で非常に重要だと思う。
台湾のこと
台湾は、1895年から1945年までの50年間、日本の植民地だった。まず、このことを理解している日本人が、現在どれだけいるだろうか。日清戦争で勝利した日本が台湾を併合したあたりは日本史の教科書で習うが、1945年の終戦後、台湾がどうなったかはあまり取り上げられない。
1945年8月の連合軍の勝利により、中華民国は戦勝国となったが、台湾は敗戦国・日本の領土だった。つまり台湾は戦争に負けたのだ。しかし、中華民国は、その後すぐに台湾を自国の領土(台湾省)とし、日本が植民地時代に築いた社会インフラや建造物を接収した。その4年後の1949年、大陸では国民党と共産党の内戦で共産党が勝利し、中華人民共和国が誕生すると、蒋介石率いる国民党の一派は大挙して台湾に逃れ、台湾で国民党政権を樹立し、戦勝国である中華民国の継続を国際的に主張した。1970年代初頭、米国・日本の電撃的な歩み寄りにより中華人民共和国が国際社会にデビューすると、台湾の国民党政権は欧米諸国や日本との国交を断たれ、国際政治の舞台から抹消されてしまう。しかし経済的には、国民党の圧政下にありながらも、アジアNIEsの雄として奇跡的な復興・発展を遂げたことは周知の通り。
もともと台湾には南方系の多様な民族(台湾では「原住民」と呼ばれる。)が居住しており、中国の歴代王朝にとっては「化外の地」、つまり蛮族が住む土地だった。漢民族が居住するようになったのは、満州の女真の侵攻により明が滅び、清が北京に首都を遷した(1644年)後、明王朝の復活を期する鄭成功が台湾に逃れ、鄭氏政権を樹立してからのこと。これを機に福建省や広東省から多数の漢民族が台湾に移住した。これら閩南(びんなん)語や客家(はっか)語を話す人々が「本省人」と呼ばれるのに対し、戦後、国民党とともに台湾に移住した北京語を話す人々は「外省人」と呼ばれる。
今、日本ではちょっとした台湾ブームが起こっている。台湾の食文化、エキゾチックな風習や祭、若手が台頭する文学、台北に多数のこるレトロな日本建築など、魅力がいっぱい。そして、台湾の人々に日本贔屓が多いことも魅力である。しかし、なぜ台湾には日本贔屓が多いのだろうか。かつて植民地として支配・被支配の関係にあったのではないか。
台湾はもともと原住民が住む野蛮な地で、統一国家としてのまとまりがないどころか、文化も風習もバラバラで、言葉すら通じなかった。ところが日本が台湾を植民地として支配した50年間、台湾の人々は日本語教育を強制されたことにより、初めて互いに意思疎通ができるようになった。また、日本による台湾の植民地経営は非常にうまく機能し、港湾や鉄道などのインフラ整備、製糖工場を始め、その後の経済発展の基盤を作ったと言われる。つまり、台湾という国家的な意識が生まれ、経済的基盤が確立したのは、日本の植民地時代だったのだ。他方、1949年に台湾に逃れた国民党政権は、事実上、蒋介石と息子の蒋経国による独裁政権だった。50年間、日本の植民地として厳しい時代を経験した台湾の人々は、それにも増して圧政を強いた国民党政権に対し、激しい抵抗運動を展開した。このため、1948年に敷かれた戒厳令が、80年代末に就任した李登輝総統の時代まで続いたのだ。台湾に日本贔屓が多いのは、漫画やアニメ、J-POPだけではなく、こうした歴史的経緯が背景にあることを日本人は理解すべきだ。
まとめ
8月10日、中国政府がコロナ禍で制限していた日本への団体旅行の解禁を行なった。秋以降、各地の観光地を訪れる中国人が大幅に増えることが予想される。台湾や韓国からの訪日客はすでに2019年のレベルに近くなっており、円安も相まって、インバウンドが本格化することになるだろう。
中国、台湾、韓国の人々は、ほとんどの日本人よりも東アジアの歴史をしっかり学んでおり、それぞれが自分なりの主義主張を持っていると思われる。もちろん国ごとに歴史解釈は異なり、相反することもあるだろうが、そうした差異を知ることこそが相互理解の第一歩なのではないか。だからこそ日本人も、自らが属する東アジアの歴史に正面から向き合い、謙虚な気持ちで学ぶべきだと思う。
2023.8.22 M. Hayashi
※写真は、妙高高原の火打山と天狗の庭。7月25日撮影。