例会の記録 2022年12月「宝塚古墳の謎」、2023年1月「新年会」

12月16日(金)、スペーシア会議室にて12月の例会を開催。リアルでは4名が出席。年の暮れなのでワインなど飲みながら、各自持ち込んだ惣菜やお菓子を食べながらの会合となった。Zoomで繋がるとある別会場では、別の4名が鍋を突きながら参加してくれたので計8名。かくして分裂気味に夜が更けていったのだった。

歓談がひととおり収束した後、私から「宝塚古墳」の謎と題して軽く話をした。

11月、松阪市にある宝塚古墳と、古墳から出土した埴輪を展示する松阪市文化財センター(はにわ館)を訪れた。この古墳については、『NAGI』という三重県の情報誌の古墳特集で初めて知ったのだが、1999年の発掘調査で大きな船形埴輪をはじめとする大量の埴輪が出土し、話題になったそうだ。これがとてもミステリアスな古墳なのだ。

宝塚古墳は、三重県 松阪市の市街地から南に3kmほど離れた丘陵上にあり、 1号墳と2号墳からなる。 1932(昭和7)年に国史跡指定。 1999年の発掘調査で大量の埴輪が出土し、松坂城跡の北にある松阪市文化財センター「はにわ館」に収蔵・展示されている。

今は1号古墳の前方後円墳と2号古墳の”帆立貝式”前方後円古墳だけが史跡として保存されているようだが、1932年当時、宝塚古墳の周囲にはたくさんの古墳が存在した。なぜヤマトの中心地である畿内から遠い伊勢の地にこのような大規模な古墳群があるのだろうか。

1号墳は、5世紀初頭に造られたもので、伊勢地方で最大規模であることに加え、「造り出し」と呼ばれる部分があることが最大の特徴。そして、この古墳からは大量の埴輪が出土している。

宝塚古墳 1号墳の模型

模型写真の左の出っ張りが「造り出し」と呼ばれる部分で祭祀空間だったとされる。古墳本体と橋で繋がっており、140点にのぼる大量の埴輪が当時のままの姿で出土したのである。

「造り出し」の拡大模型

出土した埴輪の中で最も目につくものは船形埴輪だ。「はにわ館」のウェブサイトによると、「この埴輪は、全長140cmとわが国最大規模で、船上に立体的な飾り物を樹立する形としては唯一のものです。この船は、古墳に葬られた人物の生前の業績をあらわしているという考えと、魂をあの世に運ぶ「葬送船(そうそうせん)」であるという考えがあります。」とある。

船形埴輪

さて、古墳時代の全時期を通して伊勢国最大の前方後円墳である宝塚1号墳は、伊勢の王墓として他を圧倒する規模をもつ。前方後円墳をつくることができたのは、ヤマト王権とそれに関係する限られた人物であったと考えられており、当時の社会情勢などから、宝塚1号墳に葬られた人物は、近畿地方との深いつながりをもち、近畿地方から東国への玄関口にあたる伊勢湾西岸の広い範囲を支配する立場にあった人物と推測されている。それはいったい誰なのか。

また、「造り出し」ではどのような祭祀が行われていたのだろうか。そして一番気になるのは、船形埴輪の役割である。上記の解説では、生前の業績を表したものか、葬送船かとのことだが、私の推測では、この古墳は古代、船で伊勢国にやってきた集団の王の墓であり、船形の埴輪は、伊勢国に辿り着くまでの労苦を偲んで故人とともに埋葬したものなのではないか。当時、伊勢国を支配した人々は航海に長けた海洋民族だったのだ。

そして、こうした大量の埴輪はどこで作られたのかが気になる。埴輪は素焼きの土器なので、どこかに窯場があったと考えられるが、輸送を考えるとそんなに遠方ではなかったはずだ。これも推測だが、海洋民族の中にはそうした土器製作の技術を持った者が含まれていたではないだろうか。

などなど、勝手な推測を含めて話をしたが、2会場を結んだ分裂気味の例会だったのでどこまで理解してくれたのかは不明。


続いて、2023年1月の例会は、月末の30日(月)に開催した。新型コロナによる規制が特にないことに気を良くして、名古屋駅に近い串揚げの店「串工房 雷」にて「新年会」とした。遠方から駆けつけてくれた(?)Wさん、ずっとご無沙汰だったKさん含め10名が参加。久しぶりに賑やかな会となった。コロナが一日も早く収束し、普通に宴会できる日が訪れますように !!

2023.2.6 M. Hayashi

1年前