1月15日金曜日、今年最初の例会は、またもや新型コロナの緊急事態宣言が発令されたため、全面リモートでの開催となった。12名出席。12名という人数はパソコンやタブレットの画面で全員の顔が見えるのでちょうどいい。
この日は、C. Yoshidaさんから「気候変動と地球・日本・尾張の歴史」と題して非常に興味深いけれど少しマニアックな話題を提供していただいた。以下、内容を簡単に紹介します。
地球の気候の歴史を見ていくと、10万年位の間に「長い氷河期と短い間氷期」が現れ、それが繰り返されてきた。海面の高さは現在を基準にするので、氷河期の海面は海抜ゼロメートルより下となる。最終氷河期の最後の頃の平均海面は、今より100m以上も低かった。こうしてみると、もしかすると今は間氷期の末期で、そろそろ次の氷河期が来てもおかしくないのかもしれない。

こうした気候変動が起こる原因は、主に太陽から地球に届くエネルギーの変動による。CO2が増えたり減ったりしたから気候変動が起こるのではなく、気候変動の結果としてCO2が増減すると考えられる。ただし、「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は、過去100年の間に起こった気候変動の主因は人間の活動であるとしているのは周知の通り。
氷河期というと厳しい気候と思われるが、必ずしもそうではなく地域によってばらつきがあったらしい。最終氷河期の頃の日本は、Open Boreal Woodland (開けた亜寒帯樹林)に位置付けられ、楽園だった由。
1万数千年前の最終氷河期、ユーラシア大陸から日本列島にブリヤート人が流入してきた。といっても日本海や東シナ海を舟で渡ってきたのではない。地続きだった陸地を歩いてきたのである。ブリヤート人だけでなく、台湾方面から南方系の人々も入ってきて、縄文人の祖先になった。
つまり、氷河時代が終わって縄文時代になって海面が上昇したのだ。これは「縄文海進」と呼ばれる。こうした海面上昇は、氷河時代陸地の多くを覆っていた氷河の氷が解けたことが主要因と考えられるが、後で述べるその後の海面上昇、下降は、むしろ地球の温度が上昇して海水が膨張したことの方が大きいのではないか。(このあたりから地球の温度上昇に伴う海水膨張の量や大気中の水蒸気量などの独自の試算を披露されたが、ここでは割愛します。)
それでは縄文時代、伊勢湾の海岸線はどのあたりにあったのだろうか。仮に現在より5m海面が高かったとすると、現在の海抜10m程度以上の土地でないと人は住めなかったと考えられる。だとすると、伊勢湾の奥の尾張西部から美濃にかけての地域は、東は名古屋城・熱田、西は桑名・多度、北は大垣・岐阜城のあたりまですっかり海面下だったと考えられる。こうした一帯に拡がった海は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれた。

その後、弥生時代になって海水面が後退し、海岸沿いに広大な平地が出現した。そうした平地に大陸から稲作文化を持った弥生人がやってきて、しだいに縄文人は山地や蝦夷、琉球に追いやられていったと考えられる。弥生時代は弥生人と縄文人は交わることが少なかったと思われるが、大和朝廷が全国を統一したころになると交わりが深まっていった と考えられる。
そして世界的には10世紀から14世紀にかけて中世温暖期を迎える。日本では平安時代から室町時代にかけての時期に相当するが、日本の温暖期とは必ずしも一致しない。日本では平安時代の8世紀から12世紀にかけてが温暖期で、海面上昇により海岸が現在の内陸部まで進んできた。これは「平安海進」と呼ばれる。この時期の日本は、ある研究によると気温の上昇は認められないが、天候的には激しく、干ばつや飢饉が頻発したようである。このような天変地異の多発が、政変や一揆の原因になったという説は興味深い。

平安海進で海水面は50cmから1m上昇したという説があるが、暴風雨や高波などを考慮すると、海抜3mくらいの高さの土地でないと人は住めなかったのではないか。
ここで東海道の変遷を考えみよう。7世紀に整備された古代の東海道は、江戸時代の東海道よりも内陸の方を通るルートだったはずで、多度から津島は渡し舟だった。12世紀になって頼朝が整備した鎌倉街道も、年魚市潟を避けて内陸を通るルートだった。しかし、17世紀、江戸時代は寒冷期で海岸線が後退したので、家康が整備した今に残る東海道は、古代や鎌倉時代よりもずっと海岸沿いを通るルートだった。

海岸線が沖へ後退したことで、年魚市潟の跡に広い砂浜が出現した。現在の南区星崎町の一帯である。この砂浜を利用して一帯は塩田となり、塩の一大産地となった。この塩を信州へ運ぶ街道が飯田街道であり、その集積地として足助が栄えた。現在、元塩町、塩屋町、塩付通、塩釜口など塩のつく地名が名古屋に多いがその名残といえる。
以上、改めて資料を見ながら、またC. Yoshidaさんの楽しそうな話ぶりを回想しながら書き留めた。不十分なところは多々あるが、ご容赦願います。(C. Yoshidaさんに補筆・訂正していただきました。)
2021.2.7 M. Hayashi