11月18日(水)、11月の例会を開催した。今回は、昨年のぶらりツアーでお世話になった四日市市「くるべ古代歴史館」の学芸員、渡部敦寛さんによる講演。タイトルは「古代の東海道を旅する 〜朝明駅家や久留倍遺跡〜」。出席者はリアル10名、リモート4名の計14名。
古代の東海道を旅する 〜朝明駅家や久留倍遺跡〜
1 .古代の道路とは?
2. 駅家(うまや)をめぐる人間模様
3. 古代の東海道を探す 1
4. 古代の東海道を探す 2
5.久留倍官衙(くるべかんが)遺跡と東海道
以下、感想を含め概略を記す。
古代史(飛鳥、奈良、平安時代を扱う)の最新の研究によると、古代の幹線道路である「七道駅路」の総延長は6,300kmと、現代の高速道路整備計画の総延長(北海道を除く)に匹敵する。しかも、道幅は10mから数十mとかなり広く、1町(109m)という記録すらある。路面は鏡のように固められ、両側には溝が掘られ、街路樹が植えられていた。そして、今では考えられないくらい長い距離をまっすぐ直線の道路が敷かれていた。しかし、その後、中世になるまでにこうした古代の道路は廃され、忘れ去られてしまった。したがって、江戸時代の東海道や中山道は、古代の道路を整備し直したものではない。
講演では、佐賀平野、静岡駅近くで発見された遺構を紹介いただいたが、古代の道路の遺構が出土する例は多くなく、はっきりとした古文書の記録もほとんどないらしい。
では、そんな真っ直ぐの幅員の広い道路はなんのために整備されたのか? 渡部さんによると「緊急の命を帯びた伝令が馬を乗り継いで地方に急行するため」という説があるそうだ。ふむ。でもなぜ幅数十mのまっすぐな道路である必要があったのか? 物資を運ぶためではないかとも思われるが、物流であれば海路や川を使う方が楽だったはず。単に中国の模倣ではないかという説もあるらしいが、無用の長物であったかどうかはわからない。いずれにしろ、古代の道路が整備された7世紀後半は、朝廷の力が相当強かったようだ。
それはさておき、三重県北勢地方は古代の東海道が通っていたのは確実なのだが、一部、そのルートが確定していない。馬を乗り継ぐ駅である駅家(うまや)、古代の役所である官衙(かんが)、国分寺・国分尼寺などの古代の寺院などを結ぶルートが想定されるが、北勢地方のうち特に朝明郡のルートが諸説あってはっきりしない由。
そんなこんなで、興味津々の出席者からは、講演の途中から矢継ぎ早に質問が飛び交い、予定どおりに話が進んでいかない。それでも2時間かかってなんとか最後まで説明していただき、質問し切れなかった分は、また後日ということでようやく解散となった。講師の渡部さん、お疲れ様でした。
2020.11.23 M. Hayashi
※写真は、11月にオープンした「くるべ古代歴史公園」に復元された「八脚門」。